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東京高等裁判所 昭和37年(う)436号 判決

被告人 草野義久

〔抄 録〕

所論は、本件事故の発生が被告人の業務上の注意義務を怠つたことに起因するということについて、これを認めるに足りる証拠が十分でない、として、原判決が被告人に対し無罪を言渡したのは、事実の誤認であり、その誤認は判決に影響をおよぼすことが明らかである、と主張する。

よつて、記録を検討し、重ねて当審において事実の取調べをした結果を綜合して、まづ本件における基本的な事実関係を審案するのに、被告人は原判示小型貨物自動車を運転し時速約十五粁で原判示交差点を左折しようとして把手を左に切り曲線をえがいて約七米進行したとき、左後方から進行してきた川原重明の操縦する原動機付自転車が、被告人の運転する自動車の前部バンバー左端に接触して、本件事故を発生するに至つたことが認められる。

検察官の所論は、まづ、被告人が右交差点において左折するにあたり、できる限り道路左側によらなかつたことは規則違反であり、同時に自動車運転者としての注意義務を怠り、本件事故発生の原因を与えたものである、と主張するので、記録を検討するのに、被告人が前記左折を開始したとき、その自動車と左側グリーンベルトとの間隔が一米であつたか一米五五であつたか、その正確な数字は必ずしもこれを確認し得ないが、少くとも一米以上の間隔のあつたことは否み難いところであつて、低速車道の巾員が三米、被告人の自動車の巾員が一・四米であることを考慮に入れても、被告人の自動車が完全に道路左側によらずして左折しようとしたことは明らかで、この点において被告人に所論法規違反の疑いのあることは必ずしも否定し得ない。しかしながら、仮に右法規違反があつたとして、それが直ちに被告人の自動車運転者としての注意義務懈怠となつて本件事故発生の原因をなしたものであるかどうかについて更に検討しなければならない。道路交通取締法第十四条、第一項、第二二条、同法施行令第三六条、第三七条等の諸規定において、左折しようとするときは、あらかじめ交差点にさしかかる前からできる限り道路左側によつて徐行して回るべきことを定めているのは、交差点等において左折する場合、あらかじめ左側によつて進行しないときは、その左側に併行して、あるいは、これに接続して交差点を直進する車輛があり、左折することによりその進路を遮る結果となり、直進車輛がすべて通過し終るまで一旦停車して左折を中止しなければならないので、そのため徒に交通の混雑を招く結果となるため、このような場合には、道路の状態、通行車輛の状況に即応し、あらかじめできるだけ左側によつて、交差点を直進しようとする車にはその右側に出て進行するよう誘導し、左折を開始する際は直進車輛の通過を待たずして直ちに左折運行を可能にして、車馬交通の混雑を防ぎその円滑と安全を期するものに外ならないのである。

本件において被告人は前記の如く完全に道路左側によらないまま左折しようとしたのであるから、その左側を被告人の自動車に併行して直進する車があり、また、それに接続して左後方より直進する車輛のある場合、被告人が漫然左折運行を続けるときは、これら直進車輛の進路を遮り、これとの衝突を招く危険が顕著であるから、被告人としてはこれら直進車輛の進行状況を注視して、その進路を遮ぎる虞れのあるときは一旦左折運行を中止して、その通過を待つてから左折を継続する等して、直進車輛との接衝を招かないよう注意警戒の措置を講ずべきことは言うを待たない。しかしながら、右の如く被告人の自動車の左後方に近接して進行してくる車輛がなく、被告人が方向指示器をもつて左折すべきことを警告し、適当な速力と旋回をもつて左折する限り、左後方より進行してくる車輛と接触等の危険を招く虞れのない状況にあるときは、そのまま左折を継続しても特に交通上の危険を発生せしめることはあり得ない訳である。本件において、被告人の自動車には室内バツクミラーの設備があつて、その投影範囲は車外のものと異り比較的狭いものではあるが、被告人はこのバツクミラーを見て自車の左後方に近接して進行してくる車輛を認めなかつたので、自動車後部の点滅灯による左折指示をしながら、徐行して前記左折運行を継続したのである。即ち、被告人の自動車の左側にも、またその後方にも近接した直進車輛はなく、被告人の自動車より十米ないし十五米離れて、山川修の操縦するスクーターが進行してきたが、同人は前記交差点附近に至り、右前方の被告人の自動車が徐行しつつ把手を左に切つて左折しはじめたのを確認し、被告人が前記左折運行を継続しても、右山川修の操縦するスクーターと接触衝突する等の危険は全く発生しなかつたことが明瞭である。

前記の如く、仮に被告人が完全左側によらずして左折を開始した点において法規違反の責は免れ得ない。としても、この場合においてもなお、被告人はもとより、その後方車輛は互に交通の危険を招来するような操縦方法を避けて事故の発生を未然に防止すべき義務を負うものである。殊にその後方車輛は、被告人の自動車との間に十分な間隔があつて、被告人の自動車が左折しても直ちにこれと接触する虞れのない程度に余裕のある状態において、既に被告人の自動車が把手を左に切つて左折を開始したことを現認した場合には、そのまま進行しようとするならば被告人の自動車の後方よりその右側に出て進行を継続すべきであつて、既に左折運行しつつある被告人の自動車の前面を摺り抜けて通過する如きことは許されないものといわなければならない。しかるに、本件被害者川原重明は、原動機付自転車を操縦して、前記山川修のスクーターの後方より、右スクーターとグリーンベルトとの間を縫つて、猛烈な高速力をもつて前方被告人の自動車との間に突入してきて、当時既に車体を斜左に曲げて低速車道の最左端近くまで運行してきた被告人の自動車の前方をかすめて、グリーンベルトの切れ目を摺り抜けようとし、被告人の自動車の左前部をすくうようにして、自転車の一部を自動車前部バンバーの左端にひつかけ、力余つて右バンバーを外側に逆のくの字型に曲げ、自転車は被告人の自動車の前面をとび越えて約九米前方に倒れ、被害者の体は衝突地点より十一米先の路上に空(くう)をとんで転落している事実が認められるのである。右被害者の如き不法、無謀な車輛操縦者が突如出現することを予見して事故防止の万全の措置を講ずべきことを被告人に期待することは相当でない。

所論は、前記山川修が被告人の方向指示の点滅灯に気がつかなかつた事実をとらえて、被告人の左折運行に際し方向指示に適切を欠いた点がある、と主張するのであるが、被害者川原重明は、被告人の自動車が左折運行して低速車道の最左端附近にあるのを見ながら、その前面を摺り抜けようとしたものと認められるのであつて、仮に同人が被告人の自動車の方向指示の点滅を見ても、当然これを無視したものと推認し得るのである。したがつて被告人の方向指示がその時期宜しきを得たか否かは本件事故発生の原因を究明する上に重要な問題ではない。この点において被告人に過失があつて、本件事故発生の原因をなしたものの如く主張する論旨は当を得ない。

以上の如く被告人は前記交差点に左折するに当り、完全に道路左側によつて進行しなかつた点において道路交通法規に違反した疑いは免れ得ないとしても、この場合においても被告人としてはその左折運行を継続するに当り後方車輛との接触等事故の発生を未然に防止すべき次善の措置に出で、そのため被告人の後方車輛にして(前記山川修の如く)正常な操縦運転を続ける限りにおいては、何ら交通の危険を招来する虞れが存しなかつたもので、本件は被害者川原重明の全く車輛操縦の常識を欠いた不法、無謀な原動機付自転車の運転措置によつて惹起されたものと認められるのである。

原判決が、本件事故発生の原因が、被告人の業務上の過失に起因するという点において、これを証明すべき証拠が十分でないとして、本件公訴事実につき、被告人を無罪としたことは正当であつて、検察官の本件控訴は、その理由がないので、刑事訴訟法第三九六条によりこれを棄却すべきものとして主文のとおり判決した。

(斎藤 関谷 植村)

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